風土47
今月の旅・見出し


菜の花の花盛りの2月の房総・鴨川
 「節分」とは季節の移り変わる時のことで、立春、立夏、立秋、立冬の前日を指すが、一般的には立春の前日の2月3日にのみ使われる。当日の夕暮れ、柊(ひいらぎ)の枝にイワシの頭を刺して戸口に立て、鬼打ちのために炒った豆を撒く習慣があった。いまは豆まきの風習だけが続いている。

 気候温暖な地では梅の花がほころび、菜の花が咲き、伊豆半島南東部ではピンクの色濃い河津桜が立春の気配を思わせる華やぎを見せるが、北国ではオホーツク海の流氷、札幌や十日町の雪まつりなど冬たけなわ。南北に長い日本列島とはいえ、季節の色合いにこんなに差があるとは、なんと多彩な国だろう。

〈問合せ〉
・鴨川市観光協会☎04・7092・0086

埼玉県■「のぼうの城」の忍城と日本一の足袋の町・行田


行田のシンボルの忍城跡に立つ御三階櫓

実習もできる足袋とくらしの博物館

足袋蔵を活用した食事処の忠次郎蔵

十割そばと行田名物「ゼリーフライ」

地元で人気抜群の「十万石まんじゅう」
 「♪知らない町を歩いてみたい、どこか遠くへ行きたい」。好きな歌に『遠くへ行きたい』(永六輔作詞)がある。遠さは単に距離ではなく、近いのに、否、近いゆえにかえって行っていない所も遠い町である。

 私にとってそんな町の1つに、埼玉県熊谷市の東に位置する行田(ぎょうだ)がある。冬晴れの1日、上野駅から普通電車で1時間余り、何十回となく素通りした行田駅に初めて降り立った。駅前の観光案内所で聞くと、中心街は5㌔ほど離れているという。無料の観光レンタサイクル(電動付きは500円)で、平坦な田園の道を忍城(おしじょう)を目指してペダルを踏んだ。

 行田は県名発祥となった埼玉(さきたま)古墳群が語るように早くから開けた古代の地。戦国時代の忍城に始まり、江戸時代には関東7名城の忍藩十万石の城下町として栄えた。その象徴の忍城の本丸跡には復元の御三階櫓が眩しいほどの白い姿で立っていた。行田市郷土博物館の一部になっていて、最上階からは市街が一望でき、四方に家並みや田畑が広がる。

 戦国時代の忍城は北条氏の支配下にあったので、豊臣秀吉の天下統一のための関東攻略で、石田三成の率いる2万余の軍勢の水攻めに遭うが、耐え抜いた。「あれは“浮き城”か」と舌を巻いたかもしれない。今は市民が釣り糸を垂れる外堀だった水城公園、南東方向の緑の茂みが関東最大の円墳のある埼玉古墳群、その南側の松並木のあたりが、水攻め作戦で三成軍が1週間で築いたという石田堤の名残である。

 この史話を映画にしたのが『のぼうの城』。武も勇も智もなく“でくのぼう”で、“のぼう様”と呼ばれながら領民からはめっぽう愛された城代・成田長親(野村萬斎)が奇策を繰り広げて戦う物語だ。

 また江戸時代中期に城下で始まった足袋づくりは、最盛期の昭和13年には年間8500万足、全国生産の8割を占める日本一の足袋の町になる発展ぶり。市内には石、漆喰、レンガのさまざまな意匠の“足袋蔵”が多数建てられ、現在も80棟が残っている。

 “力弥足袋”の商標で知られた牧野本店は「足袋とくらしの博物館」の看板を掛け、足袋づくりの実演や製作体験の場所として活用。そば・うどんの忠次郎蔵(048・556・9988)は足袋材料問屋のかつては小川忠次郎商店の店舗兼住宅で、食べた「十割そばもり」(850円)は打ちたて、ゆでたてのコシのある美味だった。ついでに名物の「ゼリーフライ」(1個100円)も注文した。ジャガイモにネギ、ニンジン、おから入りのコロッケで、小判型から銭フライ、それがゼリーフライに転訛したとか。

 元呉服屋の白壁・なまこ壁づくりの重厚な山田清衛門商店の店蔵を使った十万石ふくさや行田本店(048・556・1285)の看板菓子の「十万石まんじゅう」(1個110円)は、米粉と大和芋のしっとりした皮に、きめ細かな北海道十勝産小豆のこしあんがびっしり詰まった上品な甘さの名菓である。

 市内には埼玉古墳群や古代蓮の里、武蔵水路千本桜など花暦とともに心ひかれる古代ロマンや歴史ドラマがそこここにうずくまっている。

〈交通〉
・JR高崎線行田駅から循環バス、または秩父鉄道行田市駅から徒歩5分
〈問合せ〉
・行田市商工観光課☎048・556・1111
・観光情報館ぶらっと♪ぎょうだ☎048・554・1036
・行田市観光案内所(行田駅東口)☎048・550・1611

山口県■大内文化が花開き、「西の京」と呼ばれた山口市


山を背にした優美な国宝・瑠璃光寺五重塔

イタリア人神父と建築家が設計のサビエル記念聖堂

山口の代表的なお菓子の山陰堂と「名菓舌鼓」

華やかな湯田温泉の共同浴場「亀乃湯」

山口線ホームに残る「おごほり」の駅名標と、紐を引けば温まる新山口駅の「あったか穴子弁当」
 NHK大河ドラマ『花燃ゆ』で脚光を浴びている萩。その歴史や知名度に隠れがちな山口市だが、南北朝時代、長門・周防国の守護職に任じられた大内氏24代の弘世が一の坂川を鴨川に見立て、大路、小路などと名付け、道を縦横に通し、八坂神社を勧請し、京わらべを連れてきて京言葉を広めさせたというほど京を模した町だったので、「西の京」と呼ばれた。

 大内氏200年の治世の間、対明、対朝鮮貿易によって大陸の文物が流入し、西国の経済、文化の府として繁栄を極めた。応仁の乱で荒廃した京を逃れ、公卿や水墨画を極めた僧・雪舟が住み、連歌師・宗祇が逗留。宣教師フランシスコ・ザビエルが日本で初めて布教を許された町で、大内文化が絢爛と花開いた。

 そんな街中へビルの立ち並ぶ道を踏み出し、千歳橋から春は桜、柳、夏は蛍が美しい一の坂川に沿う道を遡って山際に迫ると、シンボルの瑠璃光寺五重塔がある。25代当主大内義弘の菩提を弔うために建てた檜皮葺総檜造りの優美な遺構で、わが国で最も美しい塔の1つといわれる。

 瑠璃光寺から香山公園へと山裾をなぞって毛利元就の菩提寺の洞春寺へ。街に向かうと、旧県庁舎の県政資料館、藩庁門、亀山公園の山口博物館、県立美術館などが緑に包まれて立っている。その一角にかつて2つの尖塔を見せた気高い印象のザビエル記念聖堂は焼失したが、平成10年に白亜の三角形の斬新なデザインで再建された。当初は違和感を覚えたが、いまはそれなりに風景になじんでいるように見えた。

 天神通りを歩けば、土蔵造りの店構えの山陰堂(0839・23・3110)には赤ちゃんの耳たぶほど軟らかな羽二重求肥で白餡を包んだうっとりする甘さの「名菓舌鼓」があった。駅通りには室町時代から伝わる小豆餡とわらび粉を主原料に蒸し上げた御堀堂(0839・22・1248)の山口銘菓「外郎(ういろう)」(1本190円)も買った。

 郊外には雪舟が作庭したという常栄寺雪舟庭や明から帰国した雪舟が人生の半分以上を過ごした雲谷庵跡がある。市内には雪舟筆と伝わる絵馬のある龍蔵寺、大内氏館跡の龍福寺や京・北野天神を勧請した古熊神社、大内氏の権勢をしのばせる今八幡宮など歴史の懐深い寺社が多く、町に落ち着きを与えている。

 南西郊の白狐が発見したと伝わる規模の大きな宿が集まる湯田温泉は肌触り滑らかなアルカリ性単純温泉の美肌の湯。亀乃湯(083・901・4120)など立ち寄りの湯が6軒ほどある。湯田ではこの町生まれで、30歳で世を去った叙情詩人の生家跡の中原中也記念館も必見である。

 以前の山陽新幹線小郡駅は地元住民の反対がありながら平成15年に新山口駅に改称。のちに小郡町も山口市と合併したので、まさしく山口市の玄関口だが、山口線のプラットホームには名残惜しげに、今も「おごほり」の駅名標が置かれている。この駅で買った加熱式の「あったか穴子弁当」(1100円)の駅弁店名は変わらず小郡駅弁当だ。

 市域は広がったが、山口は近代化の波を受けながらも中世の京の都の香りと誇りをなお秘めて、おおどかな雰囲気をそこはかとなく漂わせる町だった。

〈交通〉
・JR山口線山口駅・湯田温泉駅、山陽新幹線新山口駅下車
〈問合せ〉
・山口市経済産業部観光課☎083・934・2810
・山口観光コンベンション協会☎083・033・0088


中尾隆之
中尾隆之(なかおたかゆき)
高校教師、出版社を経てフリーの紀行文筆業。町並み、鉄道、温泉、味のコラム、エッセイ、ガイド文を新聞、雑誌等に執筆。著作は「町並み細見」「全国和菓子風土記」「日本の旅情60選」など多数。07年に全国銘菓「通」選手権・初代TVチャンピオン(テレビ東京系)。日本旅のペンクラブ代表・理事、北海道生まれ、早大卒。