


玄関口の盛岡駅と駅前広場に立つ啄木歌碑

市内散策に便利な循環バス“でんでんむし号”

明治の郷愁を誘う中の橋たもとの岩手銀行

小麦粉と片栗粉のシコシコ麺の盛岡冷麺

200余年前創業で今も現役の茣蓙九の建物
「ふるさとの山はありがたきかな」と刻んだ啄木歌碑のある駅前から、早速、都心循環バス“でんでんむし号”に乗車。最初に開運橋を渡る左回りコースで、盛岡城跡公園はすぐだった。堀伝いに石垣の城跡を上がった盛岡(不来方)城は天守閣も隅櫓もないが古城の趣が残り、林立するビルや緑の木立や川の市街地が見下ろせた。
二の丸跡には「不来方のお城の草に寝転びて空に吸われし十五の心」の啄木歌碑と「願はくばわれ太平洋の橋とならん」の新渡戸稲造記念碑があった。
城跡から歩いて水が清く流れる中津川にかかる中の橋を渡り、たもとにそびえる重厚で壮麗な赤レンガの岩手銀行を感動しながら見上げる。東京駅を設計した辰野金吾らの手になる107年を経た国の重要文化財である。
情報や物産を集約する「プラザおでって」でひと息ついて、明治の銀行建築を活用した「もりおか啄木・賢治青春館」に寄って紺屋町の通りを歩く。江戸末期の広壮な建物で今も荒物雑貨を商う「茣蓙(ござ)九」や大正2年の木造洋風建築の消防署だった「紺屋町番屋」の町並みとともに、名物のわんこそばや南部せんべい、和菓子、南部鉄器の点在する老舗も町歩きを楽しませる。
サケも遡上する清流の中津川沿いには盛岡出身の画家「深沢紅子野の花美術館」や青銅の擬宝珠の欄干の上の橋などここには歴史、文化、風物など盛岡の魅力のエッセンスが集まっていた。
“でんでんむし号”のルートからは石川啄木が新婚の3ヶ月ほど暮らした、盛岡で唯一残る武家屋敷の「啄木新婚の家」や宮沢賢治のモニュメントのある「いーはとーぶ・アベニュー材木町」が近く、バスと歩きで3時間の市内散策が楽しめた。
・JR東北新幹線盛岡駅下車
〈問合せ〉
・盛岡市商工観光部☏019・613・8391
・観光文化情報プラザ☏019・604・3305


柳川観光の主役のどんこ舟での川下り

優雅な洋風建築の藩主立花氏別邸の御花

香ばしい匂いを漂わせる「舟下りせんべい」

白壁・なまこ壁が美しい北原白秋生家

北原家の暮らしをしのばせる生家内
田中家に嗣子がなく後で城主になったのは以前領主だった立花氏が明治維新まで続いた。天守閣は明治5年の大火で焼失したが、鹿鳴館風の旧立花家別邸(御花)と松島を模した名庭の松濤園が名残を伝える。城の防衛や灌漑用水、水上交通に使われた水路も残ったが、無用の長物になってどぶ川化。埋立ての話に市民が反対して浄化運動が起こり、やがて甦った水郷風景は柳川観光の切り札になった。
西鉄柳川駅から歩いて5分ほどの乗り場からどんこ舟の川下りをスタート。長い竹竿で突き押す舟に身を任せ、船頭さんのガイドを聞きながら低い目線で見る、城跡の石垣やレンガの並倉、狭く低い石橋、民家の台所、白壁土蔵の風景は新鮮に映った。
途中、船頭さんが何首か朗誦したのが、ここ柳川生まれで明治・大正・昭和時代に活躍した北原白秋の歌。終点の池の端にはこの地方きっての廻船問屋から転じて成功を収めた福岡屈指の造り酒屋の白秋生家がある。白秋は“おぼちゃま”として育つが、16歳の時、一帯の大火で母屋だけ残して多数あった酒蔵を焼失。やがて家業が傾き、遂には破産。東京に出て早稲田で学び、文才を磨き上げた。
その生涯と活躍・暮らしぶりを白壁・なまこ壁土蔵の白秋生家と奥の記念館で学び、「この道」「ペチカ」「待ちぼうけ」など童謡の作詞が多いことを改めて知った。詩人として有名になった白秋は、「色にして老木の柳の打ちしだる我が柳河の水の豊けさ」などふるさと柳川の風物や生まれ育った実家への懐旧の思いを作品で発表するが、20年振りの後ろめたい帰郷ではふるさとの人の熱い歓迎を受ける。
白秋の遊んだ柳並木の船着き場の沖の端で名物のうなぎのセイロ蒸しは時間がなくて食べられなかったが、香ばしくカリッと手焼きするはりまやで「舟下りぜんべい」を買った。白秋の童謡のように素朴でやさしく、懐かしい甘さが響いた。
・西鉄天神大牟田線西鉄柳川駅下車
・JR鹿児島本線瀬高駅からバス
〈問合せ〉
・柳川市観光課☏0944・73・8111
・柳川市観光案内所☏0944・74・0891