風土47
~あなたの街の〝ゆかり〟を訪ねて~塩原直美の「あんな古都 こんな古都 京都物語」
江戸にもあった?! 三十三間堂

浅草にある矢先稲荷神社

京都・三十三間堂(国宝)
 少し時期を外しましたが、お正月に七福神巡りをなさった方も多い事でしょう。日本最古の七福神巡りは京都の「都七福神めぐり」と言われています。全国にある七福神めぐり、勿論、東京にも幾つかあり、その1つに「浅草名所(などころ)七福神もうで」があります。

 その浅草名所七福神の福禄寿である「矢先稲荷神社」(稲荷駅徒歩10分・台東区松が谷)、実はこの場所に「江戸・三十三間堂」がありました。毎年1月に京都で行われる、あの「通し矢」の三十三間堂、1001体の仏像でも、よく知られていますね。今回は、その三十三間堂の江戸のお話しをいたします。

通し矢の歴史


毎年1月に京都・三十三間堂で行われる全国大的大会(通し矢)
 まず、「通し矢」の歴史から。

 京都で始まったとされる「通し矢」。天正期には既に記録があり、それ以前に始まったと考えられています。秀吉の時代も行われていたようですが、江戸期に大流行しました。ルールは矢数を決めて、その的中率を競う競技よりも、120mの距離を射り、その通った数を競う「大矢数」(おおやかず)が大人気だったとのこと。1606年(慶長11)~1853年(嘉永6)の約240年間に400回も開催された記録が残っています。競技は陽の長い夏の夕刻からスタートし、翌日の同時刻までの数を競うというもの。最高記録は1686年(貞享3)4月、紀州藩・和佐大八郎が13,053本、通し矢は、なんと8,133本! 強靭です。藩対抗のような風潮も追い風となって盛り上がりを見せていたようです。

江戸にも三十三間堂を!

富岡八幡宮

深川にある江戸・三十三間堂のモニュメント
 あまりの流行に3代将軍・徳川家光が“江戸でも!”と土地を与え「江戸三十三間堂」を1642年(寛永19)、浅草(現在の台東区松が谷)に建立しました。1698年(元禄11)の火事により焼失。その後、1701年(元禄14)深川(現在の富岡八幡宮の東側)に再建しました。歌川広重が描いた江戸名所にある「江戸三十間堂」は、この深川の描写です。
浅草・矢先稲荷神社と数矢小学校

江東区立数矢小学校

数矢小の校章に江戸三十三間堂の縁が残されている

数矢小の校章は3本の矢がデザインされている
 最初に浅草に建てられた江戸・三十三間堂の名残が冒頭にご紹介した「矢先稲荷神社」です。江戸・三十三間堂の守り神として稲荷を勧請し、神社が、その的先にあったので「矢先」と名付けられ今に至ります。

 そして再建された深川の「江戸・三十三間堂」も残念ながら現存しません。1872年(明治5)、廃仏毀釈により解体されてしまったからです。…ですが、その名残は意外な形で残っています。深川の江戸・三十三間堂があった場所は「数矢町」という町名で1931年(昭和6)までありました。でも、その町名も富岡2丁目に統合されてしまい、近くの交差点に矢をモチーフにしたモニュメントが建っています。

 町名はなくなりましたが、富岡八幡宮に隣接する小学校の名前がなんと江東区立「数矢小学校」と言い、さらに、その校章は3本の弓矢が交差したデザインとなっているのです! さらには校歌の3番に「♪弓のごとく♪」というフレーズもあり、子供たちが元気に歌っているのです。建物も町名もありませんが、小学校の名前として残り、校章と校歌に「江戸・三十三間堂」を偲ぶものが残されていることに感激、感動します。江戸と京都を繋ぐ「通し矢」の歴史、数矢小学校に通う生徒さんが修学旅行などで京都・三十三間堂へ行ったときに、自分たちとの深い繋がりを感じ取ってもらえるとステキですね。

 歴史は過去のその瞬間点でなく、現在にも繋がる時空を越えた線であり、その時代背景や文化を知ると、その線は面になって広がる、と私はいつも思っています。ですので、今回の数矢小学校の校章を見た時には感動、感激でした。これぞ歴史を知る醍醐味、知的興奮。どうか、少子化などで廃校などにならず、在り続けて欲しいものです。

 今回は京都と江戸を通し矢の「三十三間堂」のお話しでした。

プロフィール:塩原直美(しおばらなおみ)
東京在住。京都市観光おもてなし大使・「首都圏と京都を繋ぐ観光アドバイザー」としてフリーで活動中。BS朝日「とっておきの京都」ブレーン、BS11「古地図で謎解き! にっぽん探究」京都担当、京都商工会議所講演会(東京会場)講師、朝日新聞デジタル「京都旅レシピ」コラム連載など。また中学校へ出向き修学旅行事前学習講義も行う。京都観光文化検定1級。京都市観光おもてなし大使ページ