

今年もどうぞ「風土47」、この「京都物語」をよろしくお願いいたします。

人々が気軽に散策できる水戸「偕楽園」梅の名所として全国に知られる(写真提供:偕楽園)

私の新聞配達中、漂ってきた梅の香はこの北野天満宮の境内から。梅園も良いですが、社殿を取り囲む梅が大好き
・・・・と言った矢先ですが、今月も思いつきです。
寒さ厳しい折、「春」の訪れが待ち遠しいですね。雪国の方々は、まだまだ長い冬。日本狭しとは言え、気候の差は大きいです。皆様は「春」を感じる瞬間、どんな時でしょうか?
私が「春」の到来を感じるのは「梅」です。京都に住んで新聞配達をしていた時、風に乗って漂ってくる梅の香に感涙したことがあります。梅の香に「春」を感じ、動物的に「暖」を喜んだ瞬間でした。冬の朝刊配達は、やはり過酷。雪道に阻まれ、ぬかるんで自転車を倒し、朝刊を道にばら撒き、雪の日の早朝ゆえ、「大丈夫ですか?」と声を掛けてくれる人はおらず、途方に暮れ、雪空を見上げたことがあります。ハラハラ舞い落ちる雪の中でも「頑張るぞ!」と奮起した記憶…今では懐かしい思い出。そんなこともあって、梅の香は私をとても心暖かく、そして希望をくれます。もしかしたら、桜よりも梅が好きかもしれません。
…ということで「梅」の名所紹介から歴史へと波状し、今回は京都と水戸を繋ぎます。


「偕楽園」の見晴広場からは眼下に千波湖が望める(写真提供:偕楽園)
偕楽園は、1842年(天保13)水戸藩主(9代)・徳川斉昭によって造園されました。水戸藩は御三家の一つ、石高33万石。その藩主が「領内の民と“偕(とも)に楽しむ”」という思いで「偕楽園」と名付けました。藩主の人柄、優しさ、思いやりを感じる命名ですね。
現在は水戸市が管理、13haの敷地に約100品種の梅、3000本。高台からは眼下に千波湖が望め、絶景とのこと。今年こそ、そこへ立って、梅の香に包まれたい!…と想像してしまいます。そして…私が梅の次に見たいスポットが偕楽園の南側に建っている「大日本史完成の地」の石碑です。梅とともに、その碑を訪れ、歴史に触れることを楽しみにしています。


京都御苑の西に建つ「水戸藩邸跡」碑
京都御苑の西に足腰の神様で知られる護王神社があります。その境内北側、下長者町通に、「水戸藩邸跡碑」が建っています。1686年には既に、この地に藩邸があったという記録から各藩の藩邸の中でも早い段階で藩邸があった、ということが分かり、明治まで存在します。広さは約302坪(4300㎡)。有名な徳川光圀(2代目藩主)による「大日本史」のための資料収集、借用資料の転記なども、この藩邸で行われ、係員が多く水戸から派遣され拠点となりました。
「大日本史」は1657~1906年と約250年間をかけて編纂された歴史書です。「本紀、列伝、志、表」の4部からなり、全397巻目録5巻という大事業。徳川光圀(2代藩主)は当然、完成をみることはありませんでしたが、その志は代々の藩主、水戸藩、そして徳川家に引き継がれて、完成となりました。

龍安寺の「知足の手水鉢」は「大日本史」の編纂の協力の御礼として寄進されたもの
中央の口が「吾、唯、足、知」の文字の一部となり、「われただ、たるをしる」と読めるようになっています。拝観順路の方丈裏にある手水鉢は、実はレプリカで、本物は西の庭にある茶室「蔵六庵」の露地にあります。(西の庭は通常非公開ですが2015年1月10日~3月9日まで特別公開されています)
この手水鉢、実は「大日本史」の編纂の際、龍安寺にあった「太平記」(重文)を借りた、その御礼として寄進されたものなのです。龍安寺から書物を借りて、藩邸で書き写し、返却したということが分かります。実は歴史を語る手水鉢なのです。

京都山科の琵琶湖疏水沿いにある「本圀寺」は江戸時代に光圀の一字を頂き寺名に
幕末の激動の時代に水戸藩は、その学派、思想により要の藩となりました。その背景には、徳川光圀からの「大日本史」の編纂が影響していること、それを感じる京都のスポットをご紹介しました。


意外に知られていないのが二条城の梅園

小野小町ゆかりの隨心院の小野梅園