


盲目の国学者・塙保己一像
その「夏休みの宿題に追われている」感が毎日ある今、あの頃は原稿用紙、今はパソコンと形態が変わっただけ。「早めに物事を進めておく」という人としての在り方には、なんら成長が見られない。でも、原稿用紙が嫌いになれずにいたので、こうしてモノを書くということもしているのかなと。時々、仕事内容によっては「原稿用紙何枚分」という計算をすることもある。今は使っていないが、私の頭の片隅には原稿用紙のマス目が今も存在する。
さて皆様、その「原稿用紙」の元となった“ある文献”をご存じだろうか?その文献の編纂を行った偉大な人物。歴史の教科書にも載っていたはず。
今回は、その人物「塙保己一(はなわほきいち)」と原稿用紙の起源となった文献「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」を紹介する。


塙保己一が度々、参詣した京都・北野天満宮
盲目のハンデイを抱えながら…ということが先行してしまい「実は何をした人?」。彼の功績、後世に残した影響、恩恵をもう一度、再認識しようと思った。
そのきっかけは「塙保己一記念館リニューアルオープン」のニュースを耳にしたからだ。「塙保己一と京都、ちょっと浮かばないな…京都に来ているのかな?」と私の中の京都魂に火がついた。
正確には把握できなかったが私が調べた限りでは塙保己一は最低でも11回は京都を訪れているようだ。最初は病弱の彼を健康にさせようと父親が共に旅している。その時、北野天満宮に寄った、21歳の時だ。この後、保己一は生涯、天満宮、天神様を篤く信仰することとなる。

京都・北野天満宮の学業の札と絵馬(イメージ)今も、沢山の受験生が合格を祈願する


江戸(現在・千代田区麹町)に設立した「和学講談所」内に勧請した「天満宮」の額と「和学所天満宮」と刻まれた軒丸瓦


40年の歳月をかけて完成した大文献「群書類従」
この「群書類従」の版木、これこそが「原稿用紙」の元となったのである。
何故、原稿用紙20字×20行で400字なのだろうと深く考えたこともなかったが、そうだったのか!と納得。愛着のある原稿用紙の秘話に、塙保己一をとても身近に感じた。


「群書類従」の版木が原稿用紙の元となったことに因み記念館前のイベント広場の足元は原稿用紙がデザインされている

高齢者、障害者、特に視覚障碍者に配慮された展示物の解説。触って読める触知案内板や音声ガイドがある

各コーナーガイド板は版木に原稿用紙式に全部平仮名で刻まれ、触って読めるようになっている
…と知った上で、実は視覚障碍者だったと思うと、人間の可能性の素晴らしさを感じ、さらに沢山の門弟を育てたこと、幕府からも信頼されていたことも合わせると、保己一の人柄にも惹かれてやまない。
今回、和学講談所、検校のこと、盲人一座については、あまり触れられなかったが、是非、塙保己一記念館に足を運んで、彼の功績に心を寄せてみては。
私の宿題は、今度、京都に行ったとき、北野天満宮に保己一の足跡がないか、尋ねてみたい。 学生諸君!夏休みの宿題、頑張れ!とエールを送りつつ、今回も私の「京都物語」の原稿、締切日ギリギリなのだ…ああ反省…ごめんなさい。

埼玉県本庄市児玉町にある「塙保己一記念館」
埼玉県本庄市児玉町八幡山368番地 アスピアこだま内
開館時間:9:00~16:30
休館日:月曜日(祝日の場合翌日)年末年始
入館:無料
電話:0495・72・6032