風土47
~あなたの街の〝ゆかり〟を訪ねて~塩原直美の「あんな古都 こんな古都 京都物語」
熊本応援 京都からの魂 届け!「京都に残る熊本ゆかりの人々の足跡」
 
 私の今の毎日には、変わらぬ朝が来て、電気も付き、水も出る、当り前の日常を繰り返しています。でも、ある日突然、前触れもなく、めまい?と錯覚したかのように天地がグラグラと揺れて、恐怖と共に「地震だ」と認識する、そんな日が来ない保障はありません。これは東日本や熊本だけでなく、地震大国で暮らす我々には、何時でも誰にでも起こりうること。“明日は我が身、他人事ではない”のです。歴史を少し勉強していると、地震は必ずやってくる現実を知っているので、余計にその「さだめ」を覚悟していると言えます。人生の中で被災しなかったとしたら、本当にそれは“奇跡的幸い”と捉えていいほど、歴史的には緊迫している状況と言えます。でも怯えて暮らす訳にもいかず、また東日本や熊本の皆様のように、被災して心身ともに苦しい、どん底の中からも、人は逞しく1歩1歩、日常を取り戻そうとする、その復興に全国民が応援、支援するのは、もうこの国の使命に近いかもしれません。

 観光に携わる仕事をしていると、こんな時は無力な仕事だなと毎回思ってしまいます。被災した現地では観光業は後回しであり、ライフラインが最優先。それは当然ですが、報道的には観光スポットの被災状況や観光客の激減が大きく取り上げられ話題としてしまう。その一方、観光スポットというのは、街の自慢、誇りあり、歴史、シンボルです。それは、大きな心の拠り所である訳で、とても大切な支えです。

 今回、熊本で大地震がありました。私は全国の主要観光都市を旅しているので、勿論、熊本にも行き、熊本城も見学しました。全国の城を行く先々で見ましたが、印象深かったので、はっきりと覚えています。あの素晴らしい、カッコイイ熊本城を知っている者としては今の熊本城に「言葉が出ない」。観光で訪れた私でさえ、そうなのですから、熊本の皆様のお気持ちを考えると、胸が締め付けられて「何と申し上げていいやら」戸惑うだけです。ライフライン優先の中にあって、街のシンボル、熊本の自慢、誇りの一つである熊本城の復興を早く!とは決して言えません。日常生活を取り戻すことが一番ですから。でも熊本の皆様にとっては「心の灯」の一つ、心を共に通わせる象徴であることは間違いないと。観光業の為の復興というよりも、県民の心のケアという意味での存在価値。不思議なものです、観光は「光を観る」と書く、誰が?外からの人?そこに住む人?…考えさせられます。

 まったく無力の私ですが、今回は応援メッセージと称して「京都に残る熊本ゆかりの人々の足跡」をお届けします。頑張っている熊本の皆さんを応援すべく、逞しく生きた熊本の先人たちゆかりの京都を熊本への想いを寄せて、紹介します。

戦国武将、名君「清正公」
 

加藤清正ゆかりの本圀寺
 まずは何と言っても“清正公”「加藤清正」ですね。熊本城を完成させた人物でもあります。京都にゆかり残っているの?と思う方もおられるでしょう。秀吉の家臣として活躍した戦国武将ですから、行動を共にしており、京都の街を奔走したことでしょう。昭和に街の中心部・六条から山科に移転した日蓮宗大本山・本国寺が清正ゆかりのお寺です。日蓮宗の熱心な信徒であった清正は諸堂を再建し、廃絶していた塔頭を復興させるなど手厚く保護しています。熊本で病没した際も、この本國寺から僧を呼んで葬儀を行ったと伝わっています。境内には清正が寄進した赤門(開運門とも呼ばれる)や清正廟もあります。今は、あまり観光客が訪れない静かで、自然に包まれている山科の本圀寺ですが、清正の命日6月24日には毎年「清正公大祭」が盛大に営まれています。

 さて熊本藩は加藤家が2代44年、その後、統治したのは細川家です。熊本藩主・細川家は忠利に始まり、この後、明治まで11代続きます。京都では、この忠利よりも、むしろ父・忠興と母・ガラシャ、そして祖父・幽斎が超有名人です。この両親・祖父ゆかりの京都スポットはコラムが2本書けるほど沢山ありますので、今回は省略させていただきます。ちなみに熊本藩の最後の藩主は細川護久です。。

幕末の秀才思想家・横井小楠
 

横井小楠殉節之地碑

横井小楠神霊碑
 そして、私の気になる人物・横井小楠(よこいしょうなん・1809~1869年)が熊本藩士。幕末に活躍する「開明思想家」と呼ばれる秀才。あの勝海舟が「天下で恐ろしいものを2人見た、それは“西郷と横井”」と名を挙げ、敬服している人物です。熊本藩では私塾を開き、藩政改革に乗り出しますが、横井の革新的思想が受け入れられず挫折。しかし福井藩主・松平春嶽から声が掛かり、福井藩に招かれ政治顧問となり活躍します。坂本龍馬も横井を訪ね、開国論など意見を聞いたりしています。その後、明治政府の参与(今で言う大臣クラス)となりますが、保守派によって御所からの帰路を襲われ、暗殺されてしまいます。その殉難地には石碑「横井小楠殉節地」も建っています。ちなみにお墓は南禅寺塔頭の天授庵。この寺は細川家菩提寺です。また各藩が幕末維新の神霊を祀る霊山護国神社の神域には熊本藩の招魂社(神霊18柱を祀る)もあり、横井小楠の名前もしっかりと刻まれています。

熊本藩の招魂社には18柱祀られている
吾輩も熊本ゆかりである
 

夏目漱石の歌碑
 そして最後にもう一人、熊本にも縁の深い、夏目漱石(1867~1916年)のゆかりを。各藩邸が密集していた木屋町通りに近い、御池大橋のたもとに、夏目漱石の歌碑があります。夏目漱石は4回京都に訪れているのですが、4回目(1915年)の際に詠んだ歌を、生誕100年記念で建立されました。「春の川 隔てて 男女哉(おとこおみなかな)」。これは鴨川向いの茶屋「大友」の磯田多佳女を想って読んだ歌と言われています。

肥後藩邸跡碑
 各藩邸の話がちらっと出たので、肥後藩屋敷跡の場所を添えておきます。新選組の屯所として知られる壬生寺の近くの住宅地の中にあり、石碑が建っています。江戸中期はもっと東よりにあったらしいのですが、幕末にこの地へ移転してきたようです。留守居役の日記が幕末の様子をよく伝えており貴重な史料になっているとのこと。

 今回は地震で被災した熊本が混乱している状況ゆえ、スタイルを変えてご紹介しました。熊本には熊本城、加藤清正が眠る本妙寺、横井小楠記念館、小楠公園、旧細川刑部邸 夏目漱石内坪井旧居など、今回ご紹介した人々のスポットも沢山、点在しています。観光業の復興に着手できる兆しこそが、人々が日常を取り戻した証でもある、「熊本へ、また観光に行きたい」な。

プロフィール:塩原直美(しおばらなおみ)
東京在住。京都市観光おもてなし大使・「首都圏と京都を繋ぐ観光アドバイザー」としてフリーで活動中。BS朝日「とっておきの京都」ブレーン、BS11「古地図で謎解き!にっぽん探究」京都担当、京都商工会議所講演会(東京会場)講師、朝日新聞デジタル「京都旅レシピ」コラム連載など。また中学校へ出向き修学旅行事前学習講義も行う。京都観光文化検定1級。京都市観光おもてなし大使ページ