風土47
~あなたの街の〝ゆかり〟を訪ねて~塩原直美の「あんな古都 こんな古都 京都物語」
豪商・淀屋の栄光と悪夢、貫いた商魂

 京都を旅しながら歴史を知り得て行く中で、最も興奮する瞬間は、そのスポットで知った歴史が、ほかのスポットと線で繋がる瞬間。それが増えて交差し、やがて私の中で一つの面になる、その「歴史ストーリーが見えた!」瞬間に感動、感激があることです。その知的興奮を体感したくて旅しているような気がします。情報化社会の中で、現場に行かずとも調べて分かる事も多い時代になりました。情報先行しがちですが、旅で出会って知る、それを調べると謎や疑問が増え、また謎解きに旅に出るという私。でも、その現場に立つと時代を越え、先人たちと対話できるような思いに浸れ、それが醍醐味かなと。

 今回も典型的なそのパターンのお話。

八幡市に残る淀屋の儚い足跡

八幡市にある神應寺

八幡の街に建つ淀屋辰五郎屋敷跡
 始めは全く興味がない人物でした。京都・八幡市を旅していて度々、出会ってしまった人物。それは江戸時代、大坂を代表する豪商「淀屋」。現在、橋名だけでなく、駅名やエリア名にもなっている、あの「淀屋橋」を作った豪商です。名前だけは知っていましたが…。

 きっかけは京都・八幡市。男山・石清水八幡宮で知られ、またエジソンが白熱電球の実用化に向けての材料を模索中、八幡の竹の成果が良く、各国に竹を求めることになったという世界歴史にもゆかりのある街です。駅の近く、男山の麓にある神應寺に行くと、そこに5代目淀屋辰五郎が眠っていました。「そうなのね」と思う程度で、さらに旅路が進むと、今度は八幡の街の中に「淀屋辰五郎邸宅跡」の石碑を発見。「ああ、ここに屋敷があったのね」と。

 さらに足を進めて、松花堂庭園美術館に行くと、今度は庭園の中に淀屋辰五郎の屋敷にあった「砧の手水鉢」が置かれてありました。辰五郎が愛用した手水鉢の中にはコブシ大の石があり、水の落差から、この石が水の中で踊り、その音が砧(アイロンの無い時代、しわをのばすための民具)の音に似ていたことからのネーミングとのこと。そんな縁の品にも出会ってしまった私。

 ここまでで3ヵ所のスポットが私の中で繋がり、淀屋さんに少し興味が湧きはじめていました。


松花堂庭園にある「砧の手水鉢」

八幡市にある松花堂庭園
淀にある淀屋の商魂と歴史

大阪・淀屋橋

淀屋橋のたもとに建つ米市の記念碑

米市の様子がデザインされた記念碑

淀屋橋のたもとに建つ淀屋屋敷跡の碑
 別の日、それを意識しておらず、今度は京都市・伏見区の淀を旅した私。淀競馬場(京都競馬場)や淀城跡があるエリアです。駅前の與杼神社にお参りに立ち寄ると今度は「淀屋が寄贈した高灯籠」を発見。この解説版を読んで、八幡で出会った3つのスポット、そして33歳で亡くなった5代目辰五郎の心情を察し、興味が一気に湧きました。

 初代・淀屋は本姓岡本氏と言い、出身は大坂ではなく山城国(京都)だったとされ材木商だったとのこと。秀吉の頃に大坂に入り、淀川堤防の工事を請け負って財をなし、大阪の陣では徳川方に付き、その後、自ら願い出て中之島の開拓に尽力。幕府公認の青物市、さらに屋敷前に米市を開き、多角経営に乗り出します。

 その屋敷から米市に行くために土佐堀川に架けた橋が「淀屋橋」です(米市は全国の米相場の基準となり、1697年に堂島に移る)。こうして一気に大坂一の豪商となっていくのですが、現金、不動産財産、豪華な物品だけでなく、諸大名への貸付金(徳川家も)も多額(計算方法に差がありますが現在で言うと諸大名の貸付だけで100兆円とも、別資料では幕府と西国33か国に対して15億両とも)となり、その豪商ぶりが幕府の目にあまり、ついに5代目辰五郎の時に「町人の身分を越え不届き」として闕所(財産没収の上、処払いという江戸時代の刑罰)となります。1705年、辰五郎22歳のことでした。それから10年後、東照宮100年祭で恩赦となり、八幡の山林の一部が淀屋に返還され、辰五郎は江戸から戻り、八幡で居を構えたということになります。でも、わすか1年たらずで辰五郎は他界、短い人生を終えました。

大阪・淀屋橋を訪ねて

大阪にある淀屋橋

淀の與杼神社境内にある高灯籠
 その豪商・淀屋の原点である大阪の淀屋橋に行ってみました。大阪の中心部、官庁や企業なども多いオフィス街。さらには電車の駅だけでなく、観光用の水上バス「アクアライナー」の発着所にもなっている「淀屋橋」。この「淀屋橋」は1935年に鉄筋コンクリートで再建され、橋としては珍しく国の重要文化財に指定、とても素敵な橋でした。その橋のたもとには淀屋屋敷跡の石碑、そして米市がデザインされている記念碑が建っています。今も車や人々の多い交通の要ではありますが、当時の賑わい、活気も想像でき、偲ばれます。でも…これで終わりではないことに胸打たれました。

 さて、先ほどの與杼神社の高灯籠。この寄進は1759年です。この4年後の1763年、闕所(1705年)から約60年後、大坂・北浜に木綿問屋として淀屋が復活するのです。あの高灯籠の寄進は、淀屋ゆかりの人物が再興を誓い、復活を予言して寄進したものとも言われています。復活した淀屋は幕末まで続きます。その復活劇と最期にも秘められたドラマがあるようなのですが、それはまたの機会に。

 淀屋は秀吉の時代から幕末まで江戸時代の商人として頂点から刑を受けるどん底まで、そして再起に至るまで、商人魂を貫きました。あるスポットから繋がった歴史、また、どこかで淀屋の足跡に出会いたいな…。

プロフィール:塩原直美(しおばらなおみ)
東京在住。京都市観光おもてなし大使・「首都圏と京都を繋ぐ観光アドバイザー」としてフリーで活動中。BS朝日「とっておきの京都」ブレーン、BS11「古地図で謎解き! にっぽん探究」京都担当、京都商工会議所講演会(東京会場)講師、朝日新聞デジタル「京都旅レシピ」コラム連載など。また中学校へ出向き修学旅行事前学習講義も行う。京都観光文化検定1級。京都市観光おもてなし大使ページ