


「応仁の乱」勃発の地

西陣之碑
さて不可解な応仁の乱はさておき、日本の歴史上の内乱で明解な戦い、勝者がはっきりとして「天下を分けた」戦いと言えば、関ケ原の合戦と山崎天王山の戦い、この2つでしょう。
実は昨年、この古戦場のある関ケ原町と大山崎町の二町が共同で観光のPR合戦と称し、イベントや「どっちが天下分け目の地か?」などアンケートを問う企画なども行いました。
今回は、この2つの古戦場を旅し「天下の分け目」に思いを馳せます、さてさて、その軍配は、いかに?


JR関ケ原駅

関ケ原町歴史民俗資料館

西軍・石田三成 陣跡

西軍・石田三成の陣から望む眺め

関ケ原の戦い 決戦地
米原駅から東海道本線に乗り換え、いざ関ケ原へ。出発した京都は晴れ。関ヶ原到着時は曇り…でも、すでに怪しい空模様。「これは急いで回らないと…」と焦っているところに、タクシーの運転手さんの追い打ちの一言「間もなく降りだしますよ」「やっぱり」。
関ケ原の戦いは1600年9月15日、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が戦った天下分け目の決戦。東軍7万4000人、西軍8万4000人が、死闘を繰り広げました。しかし、わずか6時間で決着。小早川の裏切りなど、戦況の変化は様々語り継がれていますが、有利な陣営を引いていた西軍が敗走します。
いざ戦場に立つと“意外に狭い地域だな”と感じました。そして西軍大将・石田三成の陣跡に行くと関ケ原が一望でき、すごく景色のイイスポットです。高すぎず、低すぎず、よく見渡せる笹尾山(標高198m)という山の中腹。但し、天候次第では霧の中?かもしれませんけれど…。決戦当日の朝も霧がかかっていたようです。
そして、その麓の平坦な地にある「決戦地」。三成の首を狙い、激戦地だったことを示す碑が立ち、戦況を偲ばせます。そして、ここから東へ約2・5キロ離れた桃配山(同104m)に初め陣を構えていた徳川家康が、戦況有利と判断し、現在のJR関ケ原駅近くの陣場野公園に陣を進めました。その両軍の「近さ」が歩くと体感できます。石田三成の陣、決戦地、家康が陣を進めた場所、これらは私が小走りしても息切れせず、余裕の距離間です(雨が降りそうなので、本当に全て小走りしました)。
今回は短時間の滞在でしたが、「関ケ原」に降り立ち、数か所スポットを歩いて感じて分かった事が沢山あり勉強になりました。この他にも沢山の武将の陣跡があるので、武将好きには魅力的な「関ケ原」。もう一度、双眼鏡を持って、ゆっくり歩きたいです。あと天候がかなりいい日がベスト、天気がどんなに良くても傘は必需品ですけど。
あと少しで駅…というタイミングで、土砂降りに遭った私。「やっぱり関ケ原」。


天下分け目の大山崎

山崎の戦いを描いた陶板画

旗立松展望台

天王山登頂証明書
山崎はJR京都駅から東海道本線で大阪方面へ。5つ目のJR山崎駅が最寄です。駅がもう天王山の麓に位置しているので、そこから城のあった山頂(標高270m)を目指します。道中に秀吉が一夜で建てたと伝わる宝寺(宝積寺)の三重塔、士気を高めるために松に旗を掲げた旗立松展望台など、片道1時間のハイキングコースとなっています。また各所に秀吉が天下を取るまでのストーリーが描かれた6枚の陶板画があり退屈しません。
山頂は木々があって見晴らしは良くありませんが、途中の展望スポットでは、大阪の街、そして明智の陣跡も名神高速道路の先の「あのあたりかな~」と…。そして山頂まで登った人には「登頂証」が頂けます。これが嬉しい!
山崎古戦場碑は天王山にもありますが、名神高速道と京都縦貫自動車道が複雑に交差する高速道路下にも建っています。
逆にその高速道路下の「山崎合戦古戦場碑」から天王山はよく見えます。明智光秀の本陣跡は、その碑の北東方向にあります。現在のサントリー京都ビール工場のあたり。明智光秀本陣跡の案内版がありますが、住宅地の中で少々見つけにくいです。明智軍にもスポットを当てた「何か」があれば、戦場としての注目度も高まりそうですね。
この山崎の散策も関ケ原同様、短時間では回りきれません。戦場スポットだけでなく、山崎には社寺や施設もあるので、目移りしてしまいます。お薦めは宝積寺と聴竹庵(公開日注意)、事前申し込みの必要な利休ゆかりの妙喜庵などなど。

明智光秀本陣跡の案内版

高速道路下に建つ山崎合戦の碑から天王山
さて、私の軍配は?
“古戦場”としては目を閉じると馬の蹄の音、命をかけて戦う武士の雄叫びが聞こえてきそうな戦地の臨場感を感じる「関ケ原」! 戦場以外の多彩な魅力の観光資源がある山崎は“観光地”としては優! ということで、引き分けです。今回は2大古戦場を紹介しました。