

京都を旅していると初めは興味がなかった同一人物のゆかりに度々出会う事があります。好みで「この庭、この寺、好きだな~」と思っていた共通項が「バシッ」とある人物に至ったケースがあります。それが戦国時代の武将・文化人「細川幽斎(藤孝)」でした。
南禅寺の塔頭「天授庵」、大徳寺の塔頭「高桐院」は元々、私の大好きな寺でしたが、そうか! 共通項は細川家だ! と気づいた時から、頭の片隅には、細川幽斎や息子・忠興が秘かに存在。別件で舞鶴や長岡京に行ったときも、細川家ゆかりのスポットに興味津々となっていた私。そこで出会う彼らのドラマが、また、どれもいい話で…でも私、怠け者ゆえ、より深く調べたり、勉強もせず、時が経過…。

東京・文京区にある「肥後細川庭園」入口


「肥後細川庭園」秋


肥後細川庭園に隣接する「永青文庫」

「肥後細川庭園」にある「松聲閣」




大徳寺塔頭 高桐院 初夏の参道と細川家歴代の墓

南禅寺塔頭 天授庵庭園 初夏と紅葉


長岡京市 勝龍寺城跡

勝龍寺城跡 庭にある忠興とガラシャの銅像

舞鶴市 田辺城跡

ゆるきゃら ゆうさいくん
勝龍寺城居城の後、信長から丹後国を治める命が幽斎に出て、一族の拠点は丹後へ移ります。その居城跡が西舞鶴にある舞鶴公園。幽斎と忠興が築城した田辺城がここにありました。現在、城郭はありませんが城門が復元され、2階が資料館となっていて見学ができます。入り口には舞鶴市商工会議所青年部のゆるきゃら「ゆうさいくん」が出迎えてくれます。
この田辺城は「関ケ原の合戦」の前哨戦となった舞台。石田三成勢1万5千人の敵に囲まれ、わずか500人で1か月半も籠城した幽斎。交渉に応じず、死を覚悟し、その緊迫した、まさにその時、「幽斎を殺してはならぬ(自害もさせてはならぬ)」という天皇の勅命が届く話は有名です。この勅命で敵の包囲が解かれ、幽斎は助かります。公園内にはその幽斎の命を繋いだ「古今伝授」にちなむ「心種園」があります。幽斎は武将として何人もの家臣となり生き抜くのですが、いざという時にブレないカッコよさがあります。その戦国の中、一流の文化人として教養を育んだ、そこがスゴイ。あ、なぜ天皇が幽斎の命を救ったか? と言うと、「古今和歌集」の解釈や様々な学説は秘伝として師から弟子に伝承されます(これを「古今伝授」と言います)。この時代の伝承者は細川幽斎、唯一人であったため、幽斎が死んでしまっては、その文化(歌道の奥義=ココで言う古今伝授)が断絶してしまいます。それを、どうしても回避したかったゆえ、勅命が下り、延命したということになります。
古今伝授にちなむゆかりの地は、この他に長岡天満宮、そして熊本・水前寺公園などにもあります。細川家ゆかりのスポットは京都にもまだまだ沢山あります。熊本にも20年位前に行きましたが、また再訪したいものです。
