風土47
~あなたの街の〝ゆかり〟を訪ねて~塩原直美の「あんな古都 こんな古都 京都物語」
「明治2年、1869年」 来年こそ京都の明治150年
今年は「明治150年」で盛り上がった二条城
 2018年も残すところ1か月。来年は生前退位による新天皇の即位、それに伴う儀式や式典などにも注目が集まる一年となりそうですね。時代によって、また人によって「天皇」への思いというのは違うのでしょうが、京都を勉強している私にとっては、遷都、さらに天皇は重要な存在(尊在)です。今から150年前、1200年もの間、都であった京を離れ、東京に行ってしまわれた天皇…その事態こそ、京都にとっては大きな節目でありました。

 今年の「明治150年」は日本史年表上の事柄であって、京都の歴史的には2019年こそが「あれから150年…」という気がします。1869年が事実上の遷都の年(太政官を東京に移した)であり、さらには天皇が東幸(とうこう)東京へ行ってしまわれた年、来年はその年から150年です。京都の明治は「明治2年、1869年」にスタートしたとさえ思います。

 そんな「明治2年、1869年」に注目して、今回は京都・大阪を旅してみましょう。

戊辰戦争の功労者・大村益次郎
高瀬川の畔に建つ石碑の左側が大村の碑
左側の碑「大村益次郎殉難の碑」
京都・木屋町沿いに建つ襲撃現場跡碑
大阪・国立大阪i医療センター角に建つ「大村益次郎の石碑」
 新政府軍と旧幕府軍の戊辰戦争が終結したのは明治2年(1869年)5月。鳥羽伏見の戦いに始まり、約1年半、明治時代の幕開けには多くの犠牲者が出ました。五稜郭の戦いが有名ですが、西郷さんの銅像の建つ上野が戦場となった「上野戦争」も忘れてはならない戦いです。彰義隊という慶喜の警護集団(旧幕府軍)と大村益次郎を大将とした新政府軍、たった1日で彰義隊は鎮圧され、新政府軍の勝利。その巧みな戦略を練ったのが兵部大輔・大村益次郎(1825?1824~1869年)です。周防国(山口)の生まれで、大阪・適塾で塾頭をつとめ、幕末には各藩で活躍し、新政府では近代陸軍兵制の創立に尽力した人物です。この大村益次郎が、明治2年(1869)9月に京都で襲撃され、右脚に重傷を負い、その傷が致命傷となり11月に大阪で没しています。襲撃したのは攘夷派浪士。封建兵法を否定し、新しい近代化の軍兵法の推進する大村に不平不満を抱いた浪士らの仕業でした。戊辰戦争は終わり、新政府が起動しているとはいえ、江戸時代の武士魂を鎮めるには、やはり時が必要であったということを象徴する事件と言えるでしょう。

 京都市役所近くの高瀬川沿いに殉難の碑がひっそりと建っています。歩いてすぐの、同じ木屋町通り沿いには襲撃現場を示す石碑もあります。京都で襲撃された大村は治療を受けるために大阪へ。重傷の大村は当時の浪速仮病院で右脚を切断、しかし敗血症のため亡くなります。この時、看病していたのが、シーボルトの娘(楠本イネ)でした。

 大村が没した場所、現在の国立・大阪医療センター南東角に大きな「大村益次郎殉難碑」が建っています。碑の脇には指揮をとる姿のレリーフもあります。(ちなみに東京・九段下には銅像)

 戊辰戦争の功労者の一人、大村益次郎47歳、このタイミングでの死、そして8年後に起こる西南戦争での西郷隆盛の死。明治新政府の進め方は本当に、これがベストだったのか? と二人の死を通して、少し考えさせられます。大村益次郎が亡くなった年、明治2年、1869年、来年は没後150年ということです。

大阪・「大村益次郎殉難碑」の横にあるレリーフ
大阪・大村益次郎殉難碑
近代化学発祥地に始まる京都大学
大阪のオフィスビルの中に、こんもりと土盛に…
 その大阪の「大村益次郎殉難碑」を後にして、すぐ近くにある京都にゆかりの場所へ。ここも知られざる「明治2年、1869年」のスポットです。
大阪市にある舎密局碑(史跡)
大阪「舎密局」の石碑
大阪「舎密局」で教鞭をとったハラタマの胸像
 谷町4丁目にある「舎密局(せいみきょく)」跡碑(史跡)です。オフィス街のど真ん中、こんもりとした土盛りの中に碑が建っています。舎密局とは公立の理化学・工業技術の研究・製造・普及を目指す勧業教育機関のこと。日本近代化学発祥の地とも言え、多くの技術者を養成しました。「せいみ」とはオランダ語で「シェミストリ=化学」の意味からの当て字。明治2年に大阪で開設され、オランダ人教師・ハラタマが指導にあたりました。石碑のそばには、その功績をたたえ、ハラタマの胸像があります。

 翌年の明治3年には京都にも「舎密局」が出来ました。その場所は現在、銅駝美術工芸高校となっています。京都の「舎密局」で教鞭をとったのが、ドイツ人のワグネル、こちらはレリーフの胸像が岡崎公園内にあります。

 大阪も京都も現在、その地には石碑や駒札、案内板しかありません。ですが、この大阪の舎密局は、名称の変遷を経て、明治22年に京都へ移り、旧制第三高等中学校、第三高等学校を経て、現在の京都大学へと繋がっていきます。京都大学の沿革は、明治2年、1869年の大阪・舎密局に始まるということです。

 京都大学の本部構内正門は、第三高等中学校正門としてキャンパス内で最初期のもの。明治26年に建てられ、国の登録有形文化財指定となっています。ということで日本の近代化学発祥、京都大学の源流となった大阪・舎密局の誕生も「明治2年、1869年」。

 さらに同年、京都市内には全国に先駆け64校の「小学校」が開校。市民の力による教育の近代化によって京都の明治がスタートするのでありました。京都を学ぶ私にとっては「明治2年、1869年」こそ、始まりの年であり、”あれから150年”という節目を来年、迎えます。

京都「舎密局」で教鞭をふるったワグネルの胸像(岡崎公園内)
京都「舎密局」跡の駒札。現在は銅駝美術工芸高校
京都・高瀬川沿いには幕末の志士たちの足跡が数多く残る
京都大学本部構内正門は、明治26年、第3高等中学校の正門として建設(有形文化財)
 さて今年も一年、「京都物語」ご愛読ありがとうございました。良い「平成最後の年」をお迎えくださいませ。
プロフィール:塩原直美(しおばらなおみ)
東京在住。京都市観光おもてなし大使・「首都圏と京都を繋ぐ観光アドバイザー」としてフリーで活動中。BS朝日「とっておきの京都」ブレーン、BS11「古地図で謎解き! にっぽん探究」京都担当、京都商工会議所講演会(東京会場)講師、朝日新聞デジタル「京都旅レシピ」コラム連載など。また中学校へ出向き修学旅行事前学習講義も行う。京都観光文化検定1級。京都市観光おもてなし大使ページ