


実は大ブームとなっている江戸時代の京都の絵師・伊藤若冲と与謝蕪村は同じ年生まれ。2016年、東京上野・東京都美術館の生誕300年「若冲展」では入場までに5時間も並ぶ、異常事態…その陰で「あの~与謝蕪村も生誕300年なのですけど…」と心の中で何度かつぶやいた私でありました。若冲は大好きです、でも、蕪村もいいです、良さが違うけれど…ということで、今回は与謝蕪村を巡ります。





蕪村は大坂から江戸へ出て、俳人・早野巴人の門下(現在の日本橋に庵があった)となり俳句を学びます。蕪村が27歳の時に、師匠である巴人が亡くなり、同門で兄弟子だった砂岡雁宕(いさおかがんとう)を頼って、下総(現在の茨城・結城)に約10年間、滞留します。この時、結城を拠点に松尾芭蕉の足跡を追って、北関東、東北などへも旅しています。
では、その結城を旅してみます。
結城は「結城紬」で知られる高級絹織物の街。今回は、その結城紬には触れず、結城市観光HPで知った「蕪村のコース」を歩きました。歩いて回れる範囲にスポットは沢山ありました。まず結城駅前の観光物産センターに蕪村が詠んだ3句が刻まれている碑。
次に向かったのはゆかりのお寺「弘経寺」(くぎょうじ)。この寺に蕪村は長く滞在したとのこと。当寺には兄弟子の砂岡雁宕の墓、そして「肌寒し 己が毛を噛む 木葉経」の句碑が境内にありました。襖絵の作品も残されているようですが、通常非公開。
その後は蕪村の詩碑がある妙国寺を目指し、最後に結城城跡公園へ。城跡だけに高台にあって、見晴らしも良く、寒空でしたがベンチで休憩。蕪村の絵の中に見たことがあるような長閑な風景が広がっていました。街並みは江戸時代と全く違うでしょうが、遠くに見える山々、その山の稜線は蕪村が見たものと同じだろう…としみじみ。城跡公園の句碑は「行く春や むらさきさむる 筑波山」でした。
結城駅へ戻る道すがら、結城の伝統菓子「ゆでまんじゅう」を購入。その場で食べてしまいましたが、作りたてで温かくて美味しかった!
その他にも銘菓「手織最中」と結城市マスコットキャラクター「まゆげった」のお菓子、蕪村に因んだ商品・結城うどん「蕪村の里」を土産にしました。



その後も、京都の日本海側にある丹後へ約3年、滞留。ゆかりの寺は宮津の見性寺、天橋立には「橋立や 松は 月日のこぼれ種」と詠んだ句碑を見つけました。





では京都市内を巡ってみましょう。病気の娘さんの平癒を願い、お参りしたと伝わる京都駅近くの粟嶋堂。境内には「粟嶋へ はだしまいりや 春の雨」の句碑。
そして芭蕉を偲んで蕪村が弟子と共に再興した芭蕉庵のある金福寺に蕪村は眠っています(墓がある)。蕪村の絵画作品は北村美術館、慈照寺(銀閣)などで、公開時、観ることができます。
余談ですが蕪村の弟子である呉春(絵師・四条派の祖)は、蕪村没後、円山応挙の弟子となります。
応挙と蕪村はご近所で交流もあり、応挙は呉春を格別な対応で迎え入れたと伝わります。この時代の絵師たちは応挙、若冲、池大雅、そして蕪村。同じ時代に生きて、同じ京都で生活し、しかも、そう離れていないご近所同士。
ライバル的な見解はむしろ現代の我々の色眼鏡であって、当の本人たちは、お互いに存在を認め合い交流しあっていたのではないか?と…。池大雅と与謝蕪村は没していたので天明の大火に遭っていませんが、応挙と若冲は、この大火で被災します。お互い、良い時も、また不運な時も絵師として称え合っていたのでは…。
蕪村を思う時、同時代の、この3人のことも思い浮かべるのでありました。