風土47
~あなたの街の〝ゆかり〟を訪ねて~塩原直美の「あんな古都 こんな古都 京都物語」
最終回 京に通じる地元「板橋」の歴史
 長らくご愛読いただきました「京都物語」、今回が最終回となります。これまで京都と他の地域をつなぐ“ゆかりの地”を旅してきました。まだまだ行きたい場所もあり、当コラムでご紹介できなかった都道府県もあります。コラムは終了しますが、私の生涯の目的である「京都ゆかりの地への旅」は、これからも続けて行こうと思っております。
(イメージ)壬生寺の絵馬、新選組
 さて最終回に相応しい場所…悩みました。でも、よくよく考えたら皆さんに「あなたの街にも京都ゆかり場所ありますよ」と言っておきながら、私は自分の街を旅していないことに気付いた! 人に薦めておいて自分が地元を“改めて”歩いていない…本来なら初回にやるべき我が地元。「いつでも行けるから、近所だから、そういう目線で見ていなかった」的な言い訳で、とうとう最終回。ということで、最後に地元「東京・板橋」をご紹介します。

 小学生の頃、地元の歴史は学んだはずなのに、全く記憶がありません。「板橋区、板の橋が川に架かっていたからだろう」程度。さらに両親に連れられ「加賀」のテニスコートに毎週末通っていた4~6年生。その「加賀」が前田家の御屋敷であったことを知るのは、ずーと後のこと。そして極めつけは「新選組の近藤勇が斬首された場所は板橋」・・・それって、私の板橋! なの?…と。ということで、いざ出発。地元を自転車で回ってみました。

石神井川に架かる「板橋」
五街道の一つ「中山道」の宿「板橋宿」
中山道の起終点 京・三条大橋
 まずは「板橋」へ。字の通り、石神井川に架かる旧中山道の橋が「板橋」。現在は板ではありませんが、川沿いには桜並木、「板橋十景」の一つとなっています。その旧中山道沿いに京都とのゆかりを探してみましょう。

 まず五街道の一つ「中山道」。起点は日本橋、67次を経て、京都・三条大橋を目指す街道です。スタートの日本橋から最初の宿場が「板橋宿」です。日本橋から約9・8キロあります。旅人の宿泊や休憩する場所を「○○宿」と言いますが、板橋宿は宿泊よりも休憩所としての利用が多かったと言われています。江戸から「直ぐ」ゆえに先を急ぐ旅人は「一息」する場所だったわけですね。と同時に江戸へ入る場合は最後の身支度を整える重要な拠点でもあったようです。

 現在も賑やかな商店街の旧中山道沿いに「板橋宿本陣跡」「中宿脇本陣跡」という石碑と駒札が建っています。幕末に14代将軍・家茂に嫁ぐ、和宮が江戸城に入る前日に宿泊した場所は「仲宿脇本陣」でした。どんな思いで最後の夜を過ごしておられたのか?と少し思いを馳せてしまいますね。

 ここで京都の和宮さま御生誕地をご紹介します。京都御苑の中、現在は駒札だけとなっていますが「橋本家屋敷」(母親の実家)。孝明天皇の妹君であり、1846年お生まれになり、ここで14年間お育ちになられました。板橋宿は和宮ゆかりの地であったということです。

和宮生誕地、京都御苑内の「橋本家跡」
板橋宿仲宿脇本陣跡碑
板橋宿平尾脇本陣跡
 さて、旧中山道を日本橋方面へ進むと2つの本陣跡を経て、弘法大師ゆかりの遍照寺、そして「板橋宿平尾脇本陣跡」へと至ります。ここが処刑されるまでの20日間、近藤勇が軟禁され、取り調べを受けていた場所です。
新選組が活躍した京都「池田屋事件跡碑」
 近藤勇はご存じの通り、新選組の局長。幕府方・会津藩松平容保のお抱えとして、京都の警護に当たります。新選組が活躍したのが「池田屋事件」。新選組の京都ゆかりの地として有名なのは壬生寺です。壬生寺に屯所を置いて、生活しながら訓練、警護をしていました。壬生寺には近藤勇の胸像もあり、新選組ファンの一つの聖地となっています。
京都 壬生寺 境内には近藤勇の胸像もある
 新選組の屯所は西本願寺や京都駅近く、現在のリーガロイヤルホテルのあたりにも置かれました。  戊辰戦争における新選組の転戦は省略しますが、近藤勇は1868年、下総流山で新政府軍に投降。そして、この板橋宿に護送されてきたという経緯です。
新選組、最後の屯所。現在は京都駅 リーガロイヤルホテルあたり
西本願寺・太鼓楼この辺りにも屯所が置かれた
JR板橋駅前にある近藤勇墓所
 近藤勇の最期は板橋宿のはずれで斬首され、胴体が当地に埋められ、明治9年、元新選組隊員・永倉新八が墓碑を建てました。現在も毎年4月の命日に近い日曜日には近藤勇ほか隊員を供養する法要が行われています。近藤勇の墓碑はJR板橋駅前すぐのところです。
墓所に建つ近藤勇の銅像
墓所にある「近藤勇墓碑」
加賀公園に建つ「加賀前田家下屋敷跡」と「友好交流都市協定」の記念碑
加賀前田家下屋敷跡碑
 最後に北区に隣接する「加賀」という場所、この地には加賀前田家の広い下屋敷がありました。「加賀」という地名だけでなく、金沢橋や金沢小学校など、北陸・金沢をイメージさせるエリアとなっています。前田綱紀が幕府から6万坪の土地を与えられ、そこから広がって、最終的には約22万坪! 現在は屋敷内にあった築山を中心とした加賀公園が当時を偲ばせるスポットとなっています。公園内には加賀前田家下屋敷跡を示す石碑、金沢と板橋の友好関係を記念したステンドグラスのオブジェがあります。

 私が小学生の時、テニスで通っていた「加賀」。そこには何面ものテニスコートがあり、周囲も高低差をもった広々とした緑豊かな場所でした。その楽しい思い出の地が前田家の御屋敷、別荘地だったと知るのは、たいぶ大人になってから。子供ゆえにテニスだけでなく、その周辺の高低差に転んだり、駆け上がったり、四葉のクローバーを探したり、虫を捕ったりと、素晴らしい教育環境であったことに、今になって感謝している次第です。

 そんな恩恵をいただいた加賀藩前田家の京都ゆかりを最後に紹介します。加賀藩の京屋敷、藩邸跡碑は木屋町御池に建っています。高瀬川に面しているので物資の運送にも便利であったことが分かります。(この他、時代で変動ありますが伏見や深草にも屋前田家の屋敷がありました)

 そして大徳寺・芳春院も前田家ゆかりの寺院、菩提所の一つとなっています。通常は非公開ですが、時々公開します。その時は必見、これまた素晴らしい庭園や建物があります。

京都大徳寺「芳春院」は前田家菩提寺
京都 木屋町御池にある「加賀藩邸跡碑」
 私の地元「板橋」、自転車で約1時間、これだけの歴史スポットがあり、知っていても、実際、意識して、その時代に思いを馳せて回るのとでは違いますね。

 歴史を知る旅は、旅するごとに土地から土地へリンクして行き、終わりなく繋がって行くものだと、今回も痛感しました。これからも「京都」をキーワードに47都道府県を見聞し、その地の魅力に触れ、その地に学び、知を深め“京都を愛する旅人”であり続けたいと思っています。

 長きに渡り、ご愛読いただき、心よりお礼、感謝申し上げます。都内各所で講演などもしております。どこかでお会いできましたら「風土47の京都物語、読んでいましたよ」と是非お声かけください。皆様も日本各地へ、地元の歴史スポットへ、そして京都へ、お出かけいただき、「生涯旅人」であられますように…。

ありがとうございました。
京都観光おもてなし大使・塩原直美

プロフィール:塩原直美(しおばらなおみ)
東京在住。京都市観光おもてなし大使・「首都圏と京都を繋ぐ観光アドバイザー」としてフリーで活動中。BS朝日「とっておきの京都」ブレーン、BS11「古地図で謎解き! にっぽん探究」京都担当、京都商工会議所講演会(東京会場)講師、朝日新聞デジタル「京都旅レシピ」コラム連載など。また中学校へ出向き修学旅行事前学習講義も行う。京都観光文化検定1級。京都市観光おもてなし大使ページ